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山田まりやさんの子供の名前は「崇徳」……?

山田まりやさんの子供の名前が発表されましたね。

曰く「崇徳(むねのり)」だそうです。
男児らしい凛々しい名前ですが、私は崇徳と言うとある御方を思い浮かべます。

それは日本の第75代天皇である顕仁(あきひと)陛下こと、
崇徳天皇」です。

この御方は父親である鳥羽天皇に「叔父子」と呼ばれ嫌われていました。
崇徳天皇は白河法皇と崇徳天皇の母親の不義の子だと思われていたからだそうです。

今ならDNA鑑定とかできますが、当時ではどうしようもないですね。

そのため崇徳天皇は生まれながらに父親から忌み嫌われるという
人生ハードモードを味わうハメとなったのです。

5歳で天皇に即位しましたが、当時は天皇の父親である上皇が実権を握っていた時代です。
そのため崇徳天皇も形だけのお飾りに過ぎなかったのです。

それでも崇徳天皇は何れは己が上皇となり権勢を振るう時がくる。
そう信じて天皇を勤めていました。

しかし父親の鳥羽上皇は弟の近衛天皇を即位させるために、
崇徳天皇に譲位を迫ったのです。
これによって崇徳天皇は上皇としての院政の道が閉ざされてしまったのです。

崇徳天皇にとっては自分の責任でないことで父親に忌み嫌われ、
上皇として得るはずだった栄光も一方的に奪われてしまったわけです。

こんな眼に遭わされたら誰だって恨み骨髄に徹すというものでしょう。

こういったことが積み重なり、保元の乱につながっていくのです。
最も保元の乱はものの数時間で失敗。
崇徳天皇は讃岐(四国)に島流しにされてしまうのです。

讃岐の地に流された崇徳天皇は深く仏教に傾倒していきました。
崇徳天皇は自らの行ないを恥じ、極楽往生を願い五部大乗経の写本を行いました。

崇徳天皇は3年間かけて、190巻にも及ぶ写本を書き上げました。
その際彼は自らの血液で持って写本を行ったと言われています。

崇徳天皇はこれを戦死者の供養と自らの反省の気持ちとして、
京都の寺に納めてほしい、と朝廷に願い出ました。

しかし時の上皇である後白河院は「我々を呪っているのではないか」として、
すげなく送り返してしまいます。
なんとも尻の穴の小さいことです。

これを知った崇徳天皇は激怒しました。
舌を噛み切り五部大乗経の写本に、
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
「この経を魔道に回向(えこう)す」
と滴り落ちる自らの血でもって書き記したのです。

その後崇徳天皇は言葉通り天狗となったと言われています。

現在では「日本三大怨霊」として知られています。

2013-02-25 | nice!(0) | コメント(0) | トラックバック(0) | 編集

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